2016年 02月 27日
「魯ひと」氏に学ぶ |
知る人ぞ知る「魯ひと」こと、市井の日蓮研究者・山中講一郎氏は、かつて『からぐらの風』という無料のメールマガジンを配信していた。
いずれの論考も示唆に富む内容の教学随想であり、毎回楽しみにしていたのだが、ある時突然に中断され大変残念に思ったものだった。その後、ウェブサイトやブログなども閉鎖され、ごく一部の専門誌を除き、最近は執筆活動からほとんど手を引かれているようでもある。
そこで、いささか勝手ではあるが、これまで配信されたものの中から、埋もれさせておくには惜しい文章を選んで転載したいと思う。(原則として、すべて受信当時の原文のままを転載します)
『日蓮自伝考』の「結びの章」で「日蓮が旅の道中に逝ったということは、結果として、いわゆる特定の場所を神聖とする聖地主義を排したということでもある。到達点ではなく道中にこそ人生の意味があるということでもあろう」(p.384) と述べた。
このことについて、ある方からのお便りに「聖地を持たないほうが世界宗教にふさわしいと思っております」というご意見が寄せられた。
しかし、私はそのようには思っていない。私自身の意見は後に述べるとして、現実には聖地を持たない世界宗教は存在しないし、「宗教が宗教として生き延びるためには、むしろ聖地が不可欠である」とする見解もあり、それなりの説得力を持っている。
聖地エルサレムがなければ、ユダヤ教は今日まで生きてきたとは思われない。メッカに対する憧憬はイスラム教徒の一体感を育んできた。バチカンに対するカソリックの思いもしかり、その他の宗教や宗派にしても大なり小なり、帰るべき寺院や教会があった。それらの寺院はその信徒の聖地として機能している。
また富士門徒を今日まで、結束させ歴史をつないできたのも、「富士に戒壇堂を建立する」という悲願があってのことであった。
私個人としては、これらの「聖地主義」を乗り越えていこうと思っているが、決して単純に乗り越えられるものとは思っていない(奥歯にもののはさまったような言い方かもしれないが、大切なことなのでじっくり考える必要があるだろう)。創・宗の決裂から既に十七年が過ぎた。しかし、未だに大石寺の力が衰えず、決着はついていない。そのひとつの理由にも、この「聖地」の問題があるように思われる。
宗教が一人の人間の志しとして、あるいは透徹した生き方としてあるとき、そのような「聖地」は何の意味も持たない。しかし、宗教を大衆運動として世代を越えた永続した運動としての観点から見るとき、はたして「聖地や特別な建物など必要ない」と言いきれるのかどうか、再考、三考を要することでもある。
ありていにいうならば、世代をこえたスパンでみれば、個人の次元において圧倒的に深く強い創価学会よりも、惰性的、旧守的な大石寺の方が永く生き延びる確率が高いとも言えるのである。ようするに「聖地」としてのイメージを持つ大石寺は、たといその信仰が惰性的であっても生きていける潜在的な力を持っている。
しかし、個人の信仰に立脚する創価の信仰は、いかに研ぎ澄まされても、世代がかわれば、その緊張感は薄れていく。初代と共に草創の苦労を知る二代目は持ちこたえても、三代、四代と世代を越えてその緊張感を持続させていくことは、かなり難しいのは事実であろう。
初代や二代と三代、四代とでは、信仰に関わる機縁は全く違う。もしその信仰が質的に変化し陶冶されていかなければ、信仰者そのものが変質して堕落してしまう。
だから、歴史的にみるならば、自然発生的に生まれたキリスト教の運動も、共和国を作ったこともある真宗門徒も、やがて巨大寺院を造り、聖地を形成していったのである。そして、それとともにその信仰はおとなしくなっていった。それが既成宗教化への道でもあった。
いま、こころみに述べさせてもらうならば、現在の創価学会の路線も、将来への生き残りをかけて既成宗教化への道を歩んでいるといってもあながち穿(うが)った見方とはいえないだろう。
私たちの青年時代、特にその前期は、学会の会館といっても古い建物を改装した実用一点張りの粗末な会館であった。歩くたびに階段はギシギシと音を立てた(そのかわり、その頃には、学会の手で富士に正本堂等の大聖地の整備が進行していたのであるが)。
それに対して、今は、各地に随分な資金も投入して立派な文化会館やビルが建つようになった(いま、その可否を論ずるつもりはない)。各地の中心会館が、その地のミニ聖地として整備されつつあることも否定できないだろう。
ある人は言った。「魯ひとさん、宗教は建物ですよ。建物を無視して宗教は生き残れない」。草創期からずっと、学会運動をリードしてきたその人の言葉には、ずしりとした重みと現実感があった。
もちろん、私とて下町育ち、大衆の何たるかを知らないわけではない。けっして、机上に「反聖地主義」を掲げているわけでもない。しかし、ブッダや日蓮大聖人に聖地主義の生き方はなかった、という一点の認識だけは譲れない。
いまや創価学会の万代への生き残りということが大命題ならば、それとともに、自らの内に三大秘法を確立するという一身の信仰観もまたゆるがせにできない大命題であろう。それなくして、かの大石寺のように巨大伽藍を残しても、その「こころざし」が死滅してしまったのでは何の意味もない。かの悲願を結集した正本堂が簡単に壊されてしまったということもまた厳然たる歴史的事実なのである。
しかし同時に、信仰が一代で終っては、令法久住が成り立たない。大衆運動の視点が脱落すれば広宣流布も画餅に等しい。現実のなかを歩む、その確かさこそが、今問われているのかも知れない。
そして、その確かさをもたらすカギは、師弟が向き合う厳しさの中から見出していくしかないと思われる。
いずれの論考も示唆に富む内容の教学随想であり、毎回楽しみにしていたのだが、ある時突然に中断され大変残念に思ったものだった。その後、ウェブサイトやブログなども閉鎖され、ごく一部の専門誌を除き、最近は執筆活動からほとんど手を引かれているようでもある。
そこで、いささか勝手ではあるが、これまで配信されたものの中から、埋もれさせておくには惜しい文章を選んで転載したいと思う。(原則として、すべて受信当時の原文のままを転載します)
【2006/07/29受信分】
聖地主義について『日蓮自伝考』の「結びの章」で「日蓮が旅の道中に逝ったということは、結果として、いわゆる特定の場所を神聖とする聖地主義を排したということでもある。到達点ではなく道中にこそ人生の意味があるということでもあろう」(p.384) と述べた。
このことについて、ある方からのお便りに「聖地を持たないほうが世界宗教にふさわしいと思っております」というご意見が寄せられた。
しかし、私はそのようには思っていない。私自身の意見は後に述べるとして、現実には聖地を持たない世界宗教は存在しないし、「宗教が宗教として生き延びるためには、むしろ聖地が不可欠である」とする見解もあり、それなりの説得力を持っている。
聖地エルサレムがなければ、ユダヤ教は今日まで生きてきたとは思われない。メッカに対する憧憬はイスラム教徒の一体感を育んできた。バチカンに対するカソリックの思いもしかり、その他の宗教や宗派にしても大なり小なり、帰るべき寺院や教会があった。それらの寺院はその信徒の聖地として機能している。
また富士門徒を今日まで、結束させ歴史をつないできたのも、「富士に戒壇堂を建立する」という悲願があってのことであった。
私個人としては、これらの「聖地主義」を乗り越えていこうと思っているが、決して単純に乗り越えられるものとは思っていない(奥歯にもののはさまったような言い方かもしれないが、大切なことなのでじっくり考える必要があるだろう)。創・宗の決裂から既に十七年が過ぎた。しかし、未だに大石寺の力が衰えず、決着はついていない。そのひとつの理由にも、この「聖地」の問題があるように思われる。
宗教が一人の人間の志しとして、あるいは透徹した生き方としてあるとき、そのような「聖地」は何の意味も持たない。しかし、宗教を大衆運動として世代を越えた永続した運動としての観点から見るとき、はたして「聖地や特別な建物など必要ない」と言いきれるのかどうか、再考、三考を要することでもある。
ありていにいうならば、世代をこえたスパンでみれば、個人の次元において圧倒的に深く強い創価学会よりも、惰性的、旧守的な大石寺の方が永く生き延びる確率が高いとも言えるのである。ようするに「聖地」としてのイメージを持つ大石寺は、たといその信仰が惰性的であっても生きていける潜在的な力を持っている。
しかし、個人の信仰に立脚する創価の信仰は、いかに研ぎ澄まされても、世代がかわれば、その緊張感は薄れていく。初代と共に草創の苦労を知る二代目は持ちこたえても、三代、四代と世代を越えてその緊張感を持続させていくことは、かなり難しいのは事実であろう。
初代や二代と三代、四代とでは、信仰に関わる機縁は全く違う。もしその信仰が質的に変化し陶冶されていかなければ、信仰者そのものが変質して堕落してしまう。
だから、歴史的にみるならば、自然発生的に生まれたキリスト教の運動も、共和国を作ったこともある真宗門徒も、やがて巨大寺院を造り、聖地を形成していったのである。そして、それとともにその信仰はおとなしくなっていった。それが既成宗教化への道でもあった。
いま、こころみに述べさせてもらうならば、現在の創価学会の路線も、将来への生き残りをかけて既成宗教化への道を歩んでいるといってもあながち穿(うが)った見方とはいえないだろう。
私たちの青年時代、特にその前期は、学会の会館といっても古い建物を改装した実用一点張りの粗末な会館であった。歩くたびに階段はギシギシと音を立てた(そのかわり、その頃には、学会の手で富士に正本堂等の大聖地の整備が進行していたのであるが)。
それに対して、今は、各地に随分な資金も投入して立派な文化会館やビルが建つようになった(いま、その可否を論ずるつもりはない)。各地の中心会館が、その地のミニ聖地として整備されつつあることも否定できないだろう。
ある人は言った。「魯ひとさん、宗教は建物ですよ。建物を無視して宗教は生き残れない」。草創期からずっと、学会運動をリードしてきたその人の言葉には、ずしりとした重みと現実感があった。
もちろん、私とて下町育ち、大衆の何たるかを知らないわけではない。けっして、机上に「反聖地主義」を掲げているわけでもない。しかし、ブッダや日蓮大聖人に聖地主義の生き方はなかった、という一点の認識だけは譲れない。
いまや創価学会の万代への生き残りということが大命題ならば、それとともに、自らの内に三大秘法を確立するという一身の信仰観もまたゆるがせにできない大命題であろう。それなくして、かの大石寺のように巨大伽藍を残しても、その「こころざし」が死滅してしまったのでは何の意味もない。かの悲願を結集した正本堂が簡単に壊されてしまったということもまた厳然たる歴史的事実なのである。
しかし同時に、信仰が一代で終っては、令法久住が成り立たない。大衆運動の視点が脱落すれば広宣流布も画餅に等しい。現実のなかを歩む、その確かさこそが、今問われているのかも知れない。
そして、その確かさをもたらすカギは、師弟が向き合う厳しさの中から見出していくしかないと思われる。
(『からぐらの風』より。「魯ひと」こと、山中講一郎氏述)
by ana_dra
| 2016-02-27 19:52
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